「50歳を迎えても全速力で走れる」なぜデスマッチファイター・佐々木貴は戦い続けられるのか?【篁五郎】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「50歳を迎えても全速力で走れる」なぜデスマッチファイター・佐々木貴は戦い続けられるのか?【篁五郎】

写真:プロレスリング・フリーダムズ提供

◾️「仲間が戻ってくる場所を確保したい」団体旗揚げの思い

 佐々木は、冬木弘道が亡くなった後に設立されたアパッチプロレス軍に参加し、デスマッチファイターとして積極的にリングへ上がっていった。しかし、先輩である金村キンタローがわいせつ事件を犯してしまい、アパッチプロレス軍は活動休止へと追い込まれる。

 佐々木は各方面へお詫び行脚をし、何とか活動を再開したものの試合をしても盛り上がりを見せることはなかった。

 「『頑張ってね』みたいな感じで観に来てくれてるんですけど、やっぱり心からの笑顔は出てない。そんなんで盛り上がるわけありませんよね」

  その後、アパッチプロレス軍は解散を発表。佐々木は仲間と一緒に「プロレスリング・フリーダムズ」を旗揚げした。

「当時、葛西(純選手)と僕は、大日本プロレスにレギュラー参戦していたので、レスラーとして食えていたんです。でも、同じアパッチ(プロレス軍)でもレギュラーで呼んでくれる団体がないレスラーがいたり、Hi69(ヒロキ/現プロレスリング・ノア所属)やマンモス佐々木は怪我で長期欠場中という状況でした。試合がない仲間を見捨てることはできなかったし、怪我をしている二人がリハビリをしている間に所属団体が潰れたら、どこで復帰をすればいいのか? そう思ったら怪我を治すモチベーションがなくなりますよね。それだったら僕が団体を立ち上げて、それを軌道に乗せるから、怪我が直ったらここで復帰しろと言える場を作ってあげたいなって思ったんです。その二つが大きかったです」

 仲間が戻ってこられる場を作ったが、何も知らずにスタートしたため最初は苦労の連続だったという。

「まずパソコンの電源の入れ方も知らない。選手だったからメディアにリリースを送る方法も知らない。会場を押さえるとか、会社と契約書を結ぶとか、会場費をいつまでに支払うとか、何も知りませんでした。チケットの作り方も知らないので、大日本プロレスの登坂社長やDDTの高木社長に教えてもらってやっていましたね」 

 最初は周りからサポートを受けながら何とか団体を運営していった。そしてチケットを売るために、あちこちへ営業活動をしていくと「プロレスって八百長なんでしょ?」「デスマッチに使っている蛍光灯って痛くないんでしょ?」といったからかいの言葉をぶつけられたという。プロレスを知らない人からは、佐々木の大きくない体格を見ると「本当にプロレスラーなの?」とバカにされたこともあるそうだ。

「そういう時って『ちくしょう』と思うんですけど、たまにシャツを脱いで、全身傷だらけの身体を見せるんです。そうすると大体黙ります。もしくは「ごめん。悪かった」と言ってチケット買ってくれますね。この身体は水戸黄門の印籠みたいなもんです(笑)」

 数多くのデスマッチを行ってきた佐々木の身体は全身傷だらけである。ガラスの破片が刺さったり、蛍光灯で額を割られたりした傷が今でも残っている。その身体を見て、揶揄できる人間は中々いないだろう。

 そうして社長として先頭を走ってきて、今でも大切にしていることがあるという。

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篁五郎

たかむら ごろう

1973年神奈川県出身。小売業、販売業、サービス業と非正規で仕事を転々した後、フリーライターへ転身。西部邁の表現者塾ににて保守思想を学び、個人で勉強を続けている。現在、都内の医療法人と医療サイトをメインに芸能、スポーツ、プロレス、グルメ、マーケティングと雑多なジャンルで記事を執筆しつつ、鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏から文学者について話を聞く連載も手がけている。

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